オーストリア共和国
(Republic of Austria)
出典:外務省 各国・地域情勢(2010年11月現在)
一般事情
1.面積
約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)
2.人口
約830万人
3.首都
ウィーン(人口約160万人)
4.民族
主としてゲルマン民族
5.言語
ドイツ語
6.宗教
カトリック約78%、プロテスタント約5%
7.略史
年月 | 略史 |
---|---|
1270年 | ハプスブルク家ルドルフ公、オーストリア王権確立 |
1918年 | 第一次世界大戦敗北によりハプスブルク帝国崩壊、共和制開始 |
1938〜1945年 | ナチス・ドイツによるオーストリア併合 |
1955年 | 連合国との国家条約締結により独立を回復。永世中立を宣言、国連加盟。 |
1995年1月 | EU加盟 |
政治体制・内政
1.政体
連邦共和制(9つの州から構成)
2.元首
ハインツ・フィッシャー(Dr. Heinz Fischer)大統領(任期6年、2004年7月8日就任)
3.議会
二院制
国民議会(下院) 183議席
連邦議会(上院) 62議席
4.政府
(1)首相 ヴェルナー・ファイマン(Mr. Werner Faymann)(社民党)
(2)欧州・国際関係大臣(外相) ミヒャエル・シュピンデルエッガー(Dr. Michael Spindelegger)(国民党)
(2007年3月、外務省の名称が「欧州・国際関係省」に変更された。)
5.内政
- 戦後、社民党及び国民党による二大政党政治が続いていたが、1999年10月の下院選挙で、第三党であった野党の自由党が移民受け入れ反対等を唱えるハイダー党首(当時)の下で議席を伸ばし、国民党と自由党の連立による中道右派政権が成立(第1次シュッセル内閣)。その背景として、13年間にわたる社民党及び国民党の大連立政権下での癒着、バルカン半島での紛争激化に伴う外国人の増加や治安悪化に対する国民の不満等があった。
- ハイダー党首は、その政治姿勢が極右的と評されたため、自由党の政権入りに反発した他のEU14ヶ国は、オーストリアとの政治レベルでの二国間の公的接触を行わず、オーストリア要人の訪問も受け入れない等の二国間措置を発動したが、アハティサーリ・前フィンランド大統領をはじめとする3名の賢人グループによる人権状況等に関する調査結果を踏まえ、2000年9月に同措置を解除。
- 2002年9月、自由党内の対立を発端に連立政権が解体。同年11月の総選挙では、国民党が歴史的大勝利をおさめ、自由党は大敗、社民党は、36年振りに第一党を国民党に譲った。社民党と自由党との間で連立政権の継続につき合意が成立し、2003年2月に第二次シュッセル内閣が発足した。
- 2004年4月、任期満了に伴う大統領選挙が行われ、フィッシャー国民議会第二議長(当時、社民党)が勝利し、7月8日に大統領に就任。
- 2005年4月、自由党内の路線対立によりハイダー元党首が右派新党「未来同盟」を結成し、連立政権における自由党の閣僚の全員が未来同盟に移った。所属議員の大部分を失った自由党に代わって、未来同盟が国民党との連立政権に参加することとなった。
- 2006年10月の国民議会選挙では、国民党が僅差で敗北し、社民党が第1党となった。連立政権交渉の結果、2007年1月に社民党のグーゼンバウアー党首を首相とする社民党・国民党の大連立政権が発足した。
- その後、社民党と国民党は、EU政策、年金政策、税制改革等、オーストリアの主要政策における方針の対立が鮮明となり、2008年7月に連立政権が解消、オーストリア国民議会(下院)が解散された。
- 国民議会の解散を受けて、2008年9月28日に選挙が実施された結果、社民党及び国民党は前回選挙から大きく議席を失い、自由党・未来同盟の両右派政党が躍進する結果となった。1ヵ月半に渡り連立政権交渉が行われた結果、世界金融危機への対応を優先し、その他政策課題も協力して取り組むことで、社民党及び国民党の連立政権合意がまとまり、12月2日にファイマン社民党党首を首相とする新政権が発足した。
- ファイマン首相は、2009年12月2日、政権成立1周年を記念して施政方針演説を行い、雇用対策に重点的に取り組んでいくことを表明している。
- 2010年4月25日、フィッシャー大統領の任期満了に伴う大統領選挙が行われ、現職のフィッシャー大統領が再選された。
- 2010年10月10日、ウィーン市議会選挙が行われ、与党である社民党及び国民党は大きく議席を減らし、右派政党である自由党が躍進。
政党 | 議席数 | 増減 |
---|---|---|
社民党 | 57 | -11 |
国民党 | 51 | -15 |
自由党 | 34 | +13 |
未来同盟 | 21 | +14 |
緑の党 | 20 | -1 |
外交・国防
1.中立政策
戦後の米英仏ソ4ヶ国による分割統治を経て、1955年に独立を回復し、同年10月、永世中立を宣言、国連への加盟も果たした。NATOには未だ非加盟だが、協力関係(PfP枠組み文書に署名)にある。EU(1995年に加盟)の共通外交安全保障政策(CFSP)は中立政策と両立するとの立場。
なお、2009年1月から国連安保理非常任理事国を務めている。
2.EU政策
東西冷戦下では、政治体制の如何を問わず近隣諸国を中心とした二国間関係の緊密化を目指してきたが、1994年6月に行われたEU加盟を巡る国民投票において、賛成66.4%(投票率81.3%)にてEU加盟が承認され、1995年1月にEUに加盟し、西欧(EU)志向の政策をとるようになった。その後のEU東方拡大の流れを受け、近隣のEU候補加盟国との「地域的パートナーシップ」構想を打ち出すなど、EUの枠組みの中で中・東欧地域との結びつきを強化する傾向にある。2000年9月のEU14カ国による「二国間措置」が解除されてからはEU各国との要人往来も元通り行われるようになり、一時期のぎくしゃくした関係は見られなくなった。2004年5月には中・東欧諸国の多くがEU新規加盟を果たし、地理的にEUの中心を占めることとなった。地理的・歴史的に西バルカン諸国とのつながりが深く、西バルカン諸国のEU加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。2006年前半はEU議長国を務めた(98年後半に続いて二度目)。
3.国際機関
ウィーンは、ニューヨーク、ジュネーブに次ぐ「第三の国連都市」として、国際原子力機関(IAEA)や国連工業開発機関(UNIDO)等、国連諸機関の本部が置かれている他、OSCE事務局やOPEC本部を有する国際都市。冷戦期には東西両陣営の接点として、ケネディ−フルシチョフ会談(1961年)等数々の国際交渉の舞台ともなった。
4.国際貢献
国連平和維持活動に積極的に取り組む(ゴラン高原等8つのPKO約400人を派遣)他、コソボ支援(KFOR:約500人)やボスニア支援(EUFOR:約300人)を行っている。
5.イラク問題
墺政府は、対イラク武力行使には、武力行使を明示的に容認する国連安保理決議の採択が必要との立場を維持し、連邦軍部隊の派遣や米軍等の領空通過の許可を行わなかった。但し、対イラク武力行使終了後は、少数の政府職員及び民間人を人道支援目的(イラク南部の病院再開プロジェクト)で派遣。
6.気候変動問題
京都議定書では、EU全体の温室効果ガス排出量を2008年から2012年の期間内に1990年比マイナス8%とすることを義務づけており、これを踏まえたEU内の規定により、オーストリアは同期間内に、1990年比マイナス13%とする義務を負っている。
同目標達成のため、オーストリア政府は、1)水力発電利用の更なる促進、2)エコ電力法(再生可能エネルギーによる発電を行う事業者(エコ発電事業者)に対し、関係当局が市場価格を上回る価格で買取りを行うことで事業者を支援すること等を内容とするもの)の活用、3)気候ファンドの設立などを行っている。
経済(出典:オーストリア統計局2009年)
1.名目GDP総額
2,755億ユーロ
2.1人当たりGDP
29,300ユーロ
3.実質GDP成長率
−3.6%
4.消費者物価上昇率
0.4%
5.失業率
5.4%
6.主要産業
機械、金属加工、観光
7.貿易
輸出 942億ユーロ(自動車、電気製品、機械、鉄鋼等)
輸入 978億ユーロ(自動車、電気製品、機械、原油等)
8.通貨
ユーロ(2002年1月より流通開始、2010年1月現在、1ユーロ=約128円)
9.財政(2009年連邦予算)
歳入 639億ユーロ
歳出 774億ユーロ
10.最近の経済概況
主要経済指標 | 2007年 | 2008年 | 2009年 |
---|---|---|---|
名目GDP(単位:百万ユーロ) | 270,837 | 283,880 | 275,538 |
1人当たりGDP(単位:ユーロ) | 31,600 | 32,299 | 29,300 |
消費者物価上昇率(単位:%) | 2.2 | 3.2 | 0.4 |
失業率(単位:%) | 4.4 | 3.5 | 5.4 |
(出典:オーストリア統計局、オーストリア財務省、WIFO)
- 2007年までは、中・東欧諸国の経済成長を背景に、輸出増加及び堅調な設備投資等により高い経済成長を遂げた(実質GDP成長率:2006年3.5%、2007年3.5%、出典:オーストリア統計局)。しかし、2008年秋以降、世界金融危機の影響により輸出や投資が落ち込み、2009年には3.6%のマイナス成長となった。
- 金融危機後、自己資本不足に陥った金融機関もあったことから、政府は銀行への公的資金注入(150億ユーロ)、銀行間取引に対する政府保証(750億ユーロ)、預金保護に必要な政府保証(100億ユーロ)を内容とする一連の金融危機対策を実施した。
- 失業率は他の欧州諸国に比して低く、経済の好調により非常に低い水準で推移(2007年4.4%、2008年3.5%、出典:オーストリア統計局)してきたが、近年の経済悪化を受け人員削減の動きが強まっており、2009年は5.4%にまで上昇した。
- 2010年10月23日、オーストリア政府は、財政赤字拡大を受け、2011年〜2014年の緊縮財政を閣議決定、2011年には、12億ユーロの歳入増(銀行税導入など)及び16億ユーロの歳出減(年金受給制度の厳格化など)を実施する予定。
- 一方で、オーストリアを訪れる外国人は年々増加しており、2009年の訪問者数は、延べ2,136万人(うち、日本人訪問者数は約20万人)であった。(出典:オーストリア統計局)
二国間関係
1.政治関係
- 伝統的に友好な関係。1869年に修好通商航海条約を締結して外交関係を樹立(当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国)。また、1955年のオーストリアの永世中立国の宣言に対して我が国は1番最初に承認を行った。
- 修好130周年にあたった1999年に、クレスティル大統領(当時)が国賓として来日した。2002年7月には、天皇皇后両陛下がポーランド及びハンガリーを御訪問の途次お立寄りになった。2006年4月、シュッセル首相がEU議長国として訪日した際、小泉総理との間で二国間首脳会談を行った。また、2006年8月、眞子内親王殿下がホームステイのためウィーンに御旅行になった。
- 2009年は、両国の外交関係開設140周年に当たり、「日本オーストリア交流年2009」として両国で祝うこととなった。2009年1月には、シュピンデルエッガー外相、プラマー下院議長が相次いで訪日した。また、「日本オーストリア交流年2009」の日本側名誉総裁である秋篠宮殿下は、5月10日〜13日、妃殿下と共にオーストリアを公式訪問された。
- 2009年9月30日〜10月3日には、オーストリア側名誉総裁であるフィッシャー大統領が夫人とともに訪日し、天皇皇后両陛下との御会見及び午餐に出席し、鳩山総理との首脳会談、夕食会等を行った。
2.経済関係(財務省統計)
(1)対日貿易
日本はオーストリアにとり、アジア有数の貿易相手国。2003年は日本の輸出超過であったが、2004年以降は輸入超過が続いている。オーストリア連邦産業院は対日輸出促進プログラム「サクセスフル・イン・ジャパン」の第2段階(1998年から2000年末まで)を実施、2001年から「ジャパン・ナウ」と題して対日輸出支援を行った。2004年より2006年まで墺・経済労働省の呼びかけによって墺・連邦産業院と共同で、商品輸出、サービス輸出、海外直接投資の促進を三本柱とする「go-international」政策を行った。
- 輸出 739億円(自動車、建設鉱山用機器等)(2009年)
輸入 1,263億円(機械類、自動車、木材、家具等)(2009年)
対オーストリア輸出 | 対オーストリア輸入 | 収支 | |
---|---|---|---|
2002年 | 1,084(3.8) | 1,145(4.9) | -61 |
2003年 | 1,342(19.2) | 1,219(6.1) | 123 |
2004年 | 1,356(1.0) | 1,413(15.9) | -57 |
2005年 | 1,187(-12.5) | 1,461(3.3) | -274 |
2006年 | 1,388(16.9) | 1,792(22.7) | -404 |
2007年 | 1,521(9.6) | 1,885(5.2) | -364 |
2008年 | 1,297(-14.7) | 1,613(-14.4) | -316 |
2009年 | 739(-43.0) | 1,263(-21.7) | -524 |
(出典:財務省貿易統計)
(2)投資
2008年の対オーストリア直接投資は30億円、対日直接投資は45億円。
(出典:日銀「国際収支統計」)
3.文化関係
- 日本とオーストリアの長い交流の歴史を反映し、両国間の文化・芸術面での交流は活発である。
- 日本とオーストリアは、1869年10月18日、修好通商航海条約を締結したことから、2009年は日本とオーストリアの外交関係開設140周年の節目に当たる。2006年に行われた日本とオーストリアとの間の首脳会談において、両国は2009年を「日本オーストリア交流年2009」とすることを決定し、両国では演奏会や展覧会など200件以上の認定事業が行われた。なお、2009年はオーストリアを含むドナウ川流域4ヵ国(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)との周年を記念した「日本・ドナウ交流年2009」も実施されている。
- 両国間の文化交流ではとりわけ音楽分野での交流が活発なことが特徴とされ、ウィーン国立音楽大学等において多くの日本人留学生が音楽を学ぶ他、小澤征爾氏(ウィーン国立歌劇場音楽監督)をはじめオーストリアを拠点として活動する日本人音楽家も多い。また、ウィーン少年合唱団、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フィル等の著名な楽団が毎年のように日本公演を実施している。
- アニメ・ブームの影響もあり、日本語を学習する学生の数は少なくない。オーストリアで唯一日本学科を有するウィーン大学東アジア研究所には、毎年100名を超える学生が入学している。日本の伝統文化や武道等に関心を持つオーストリア人も少なくない。日本食もブームとなっている。
4.在留邦人数
2,188人(2009年10月)/在留邦人は、音楽関係者、音楽留学生、在ウィーンの国際機関職員及びその家族等が多いのが特徴。
5.在日当該国人数
約468人(2010年10月)
6.要人往来
(1)往(1959年以降)
年月 | 要人名 |
---|---|
1959年 | 岸総理 |
1979年 | 金子科技庁長官 |
1980年 | 中川科技庁長官 |
1983年 | 安田科技庁長官 |
1985年 | 安倍外相、竹内科技庁長官 |
1988年 | 高鳥総務庁長官、伊藤科技庁長官 |
1989年 | 宮崎科技庁長官、江藤運輸大臣、土屋参院議長、安井衆院副議長、中山外相 |
1990年 | 中山外相、山本農水相、保利文相 |
1993年 | 江田科技庁長官 |
1994年 | 田中科技庁長官、高円宮同妃両殿下 |
1995年 | 常陸宮同妃両殿下(非公式) |
1996年 | 池田外相、土井衆議院議長 |
1997年 | 豊田経団連会長、藤本農水相 |
1999年 | 高村外相、高村政府代表、斎藤参議院議長、玉沢農水相 |
2001年 | 綿貫衆議院議長 |
2002年 | 遠山文科相、天皇皇后両陛下 |
2003年 | 川口外相 |
2006年 | 眞子内親王殿下(ホームステイ) |
2009年 | 秋篠宮同妃両殿下 |
2010年 | 小沢環境相 |
(2)来(1959年以降)
年月 | 要人名 |
---|---|
1959年 | ラープ首相 |
1968年 | クラウス首相 |
1980年 | パール外相 |
1982年 | ザルヒヤー蔵相 |
1985年 | フイツシャー科学研究相、ラツィーナ運輸・国有企業相、シュテーガー副首相 |
1986年 | ヤンコヴィッチ外相 |
1988年 | グラッツ下院議長、シャンベック上院議長 |
1989年 | モック副首相兼外相(大喪の礼)、リーグラー副首相及びモック外相(IDU)、フラニツキー首相、シュッセル経済相 |
1990年 | ワルトハイム大統領(即位の礼) |
1991年 | フィッシュラー農林大臣 |
1992年 | モック外相、ブセック副首相 |
1993年 | シュッセル経済相 |
1995年 | ハーゼルバッハ上院議長、シュミット・リベラルフォーラム党首 |
1997年 | ファルンライトナー経済相 |
1997年 | シャンベック上院議長 |
1998年 | リープシャー経済相 |
1999年 | クレスティル大統領(国賓)、ファルンライトナー経済相 |
2000年 | パイヤー上院議長、モルテラー農林・環境・水利相 |
2001年 | グラッサー蔵相、フェレーロ=ヴァルトナー外相 |
2002年 | フェレーロ・ヴァルトナー外相 |
2004年 | バルテンシュタイン経済労働相 |
2005年 | バルテンシュタイン経済労働相 |
2006年 | シュッセル首相 |
2009年 | シュピンデルエッガー外相、プラマー下院議長一行(衆議院招待)、フィッシャー大統領夫妻(公式実務訪問賓客)、シュミート教育・芸術・文化相、 ブレス交通・革新・技術相、ミッターレーナー経済・家族・青少年相、ハーン科学・研究相 |
7.二国間条約・取極
- オーストリアの永世中立の承認に関する取極(1955年)
- 査証・査証料免除取極(1958年)
- 租税条約(1961年)
- 司法共助取極(1963年)
- オーストリアのある種の請求権解決に関する取極(1966年)
- 繊維製品の貿易に関する取極(1976年)
- 航空協定(1989年)
8.外交使節
(1)在オーストリア日本国大使 田中映男特命全権大使
(2)駐日オーストリア大使 ユッタ・シュテファン=バストル特命全権大使