マケドニア旧ユーゴスラビア共和国
(Former Yugoslav Republic of Macedonia)
出典:外務省 各国・地域情勢(2011年8月現在)
一般事情
1.面積
旧ユーゴスラビア連邦の東南に位置していた共和国であり、多数派のマケドニア人(スラブ系)と少数派のアルバニア人を中心とする多民族国家。紀元前4世紀にアレキサンダー大王を輩出した古代マケドニアとは民族的なつながりはない。
1.面積
2万5,713平方キロメートル(九州の約3分の2)
2.人口
206万人(2009年)
3.首都
スコピエ
4.言語
マケドニア語
5.宗教
キリスト教(マケドニア正教)7割、イスラム教3割
6.略史
年月 | 略史 |
---|---|
6、7世紀頃 | スラヴ人が定住 |
15世紀以降 | オスマン・トルコの支配下に入る |
1918年 | セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国建国 |
1945年 | 旧ユーゴ構成共和国の一つとして発足 |
1991年 | 旧ユーゴより独立 |
1993年 | 国連加盟 |
政治体制・内政
1.政体
共和制
2.元首
ギョルギェ・イヴァノフ大統領(2009年5月就任)
3.議会
1院制(定員120議席)
4.政府
内部マケドニア革命組織・マケドニア国民統一民主党(VMRO-DPMNE)が主導する連合(右派)を中心とする連立内閣(2011年7月発足)
(1)ニコラ・グルエフスキー首相
(2)ニコラ・ポポスキー外相
5.内政
(1)1991年の独立以来、社会民主同盟(SDSM:旧共産党系)を中心とした連立政権下にあったが、1998年11月の総選挙で敗北し、代わって、マケドニア民族主義を標榜する内部マケドニア革命組織・マケドニア民族統一民主党(VMRO−DPMNE)及び中道の民主選択党(DA)にアルバニア人急進派であるアルバニア人民主党(DPA)を加えた連立政権が成立した。
(2)1991年の独立以来、9年間にわたって大統領の職を務めたグリゴロフ大統領(SDSM出身)の任期満了に伴い、1999年10−12月にかけて大統領選挙が実施された結果、与党第1党(VMRO−DPMNE)推薦のトライコフスキー候補が当選した。
(3)2001年2月、北部のコソボとの国境付近でアルバニア系過激派勢力(NLA)が武装蜂起し、政府軍及び治安部隊との銃撃戦が続いた。一時はNLAが首都スコピエの間近まで迫る勢いを見せ、難民・国内避難民が約17万人発生し、「旧ユーゴ最後の民族紛争」としてEUを中心に国際社会の注目を集めた。同年5月、事態の政治的解決のため、マケドニア、アルバニア両系与野党による大連立政権が成立し、7月初旬に政府と民族解放軍との間でNATOの仲介の下、停戦が成立し、8月中旬に大連立政権内でアルバニア系住民の地位改善((1)人口の20%以上がアルバニア系住民を占める地域におけるアルバニア語の公用語化、(2)今後2年間で1,000人のアルバニア系警察官の増加等)を中心とし、憲法改正を含めた必要な法改正を行う旨を確約する「枠組み合意(オフリド合意)」が成立した。これを受けてNATOの「Operation Essential Harvest」部隊によるNLAの武器回収が行われ、NLAは自主解散を宣言した。
(4)憲法及び地方自治法の改正により、枠組み合意に規定されていた支援国会合開催の条件が整ったことを受けて、2002年3月、欧州委員会及び世銀の共催による支援国会合が開催された。支援国会合には36ヶ国、18国際機関が参加し、財政支援、復興支援及び枠組み合意履行支援に対して、308百万ユーロの支援が表明された。日本は、1千万ドルの支援を表明した(既に全額実施済み)。
(5)枠組み合意の主要な規定の中に繰り上げ総選挙の実施があり、当初は2002年1月に実施される予定であった。しかし、不安定な治安情勢等を理由に実施が大幅に遅れ、結局任期満了後の2002年9月15日に投票が行われ、OSCEの大規模な監視団が見守る中、概ね平穏に国際基準に則った選挙が実施された。日本も対南東欧支援の一環として、OSCE選挙監視団に監視要員を派遣した。
(6)総選挙の結果、マケドニア系野党SDSMが120議席中60議席を獲得する大勝利を納めたのに対し、マケドニア系与党VMRO−DPMNEは46議席を33議席に減らす大敗を喫した。注目されたアルバニア系政党の中では、元NLA指導者アフメティが設立した「統合のための民主同盟(DUI)」が16議席を獲得し、アルバニア系の第一党となる大躍進を見せた。他のアルバニア系政党である「アルバニア人民主党(DPA)」(10→7議席)及び「民主繁栄党(PDP)」(10→2議席)は何れも議席数を減らした。結果、第一党であるSDSMとDUIによる連立政権が誕生した。
(7)2003年3月、NATOから駐留ミッションを引き継いだEU軍事ミッション「コンコルディア」(EU初の緊急対応部隊)は、当初の予定を若干延長し同年12月まで駐留し、その後EU警察ミッション「プロキシマ」が活動を開始した。2005年12月、「プロキシマ」も任期満了に伴い活動を終了し、その後派遣されたEU警察顧問チーム(EUPAT)も2006年6月に任務を終了した。
(8)2004年2月、投資促進会合出席のため、ボスニア・ヘルツェゴビナに向かっていたトライコフスキー大統領の専用機が墜落し、同大統領を含む9名が死亡した。大統領の事故死を受けて4月に行われた臨時大統領選挙では、SDSMのツルヴェンコフスキー候補(首相)がDUIの協力で勝利を収め、5月に大統領に就任した。同大統領に組閣を命じられたコストフ内相を首班とする新内閣が6月に発足したが、内相以外の全閣僚が留任し、枠組み合意の履行を進めつつ、国際社会との協力関係を強化し、支援の継続により経済発展を軌道に乗せるという政府の基本方針は継続。
(9)コストフ政権は枠組み合意に規定された地方分権推進のための自治体再編を進めていたが、再編によりアルバニア系住民が多数派となる自治体を中心にマケドニア系住民による反対運動が起き、負傷者が出る事態も発生した。2004年8月に自治体再編法案が与党の強行採決により国会で可決されたが、これに対し同法案の是非を問う国民投票実施を求める署名運動がNGO「世界マケドニア人会議」により進められ、国民投票実施に必要な15万人の有効な署名が集まった。国民投票の結果次第では枠組み合意の履行が停滞する可能性があったが、11月7日に行われた国民投票は投票率が26.58%に留まり、投票率50%以上という国民投票成立要件を満たさず、不成立となった。
(10)国民投票を乗り切ったコストフ内閣であったが、2004年11月にコストフ首相が突然辞職を発表し、その後SDSMの新党首に選出されたブチュコフスキー国防相が12月に新首相に就任した。コストフ首相は、辞職の理由としてDUIによる汚職とネポティズムを示唆した。
(11)2005年3月から4月にかけて、自治体再編法に基づく最初の地方選挙が行われたが、OSCEのODIHR(民主制度・人権事務所)は、同地方選挙において各地で深刻な選挙違反が行われ、選挙の普遍性、平等性、秘匿性が傷つけられたと発表し、EU、NATOもその評価を支持する発表を行った。
(12)地方選挙後、政府は急ピッチで地方への権限、財源の移譲等の地方分権化行動計画を策定し、予定通り2005年7月1日から新自治体の業務が開始されたが、地方分権化プロセスが完全に終了するには数年かかると見られる。また、同年7月15日、国会は民族共同体の旗の使用に関する法案を賛成多数で採択し、各自治体において人口の過半数を占める民族共同体が自らの旗を自治体の建物前に掲揚できるようになった。EU、OSCE、米国は、同法案の成立により枠組み合意の立法部分の履行が終了したとして、直ちに歓迎の意を表した。
(13)2006年7月5日、任期満了に伴う国会総選挙の結果、VMRO-DPMNEが主導する連合が45議席を獲得し第1党となり、SDSMは32議席に留まった。VMRO-DPMNEは、アルバニア系政党で第2党となったDPA、新社会民主党(NSDP)、マケドニアの民主的復興等(DOM)及び欧州的未来党(PEI)と連立を組むことを決定し、8月26日、グルエフスキーVMRO-DPMNE党首を首班とする連立内閣が発足。新内閣は、経済発展を最優先課題に位置付ける一方、EU及びNATO加盟等、主要外交政策は基本的に前政権の政策を継承。なお、アルバニア系政党の中で第1党となりながら連立政権入りを果たせなかったDUIは、国会審議を欠席するなど、反発していた。
(14)内政上の混乱や、2008年4月のNATOサミットにおけるマケドニアへの加盟招請見送り等の事態を受け、議会解散及び6月1日における前倒し総選挙が実施され、与党であったVMRO-DPMNEが圧勝し、単独過半数の議席を獲得した。7月26日、VMRO-DPMNEとアルバニア系第1党となったDUIによる連立政権が発足し、グルエフスキーVMRO-DPMNE党首が改めて首相に就任した。グルエフスキー政権は、公共事業や外資誘致、産業補助金政策により経済成長を目指す一方、汚職対策、法の支配の徹底、民族融和分野での改革の遅れが指摘されている。
(15)2009年4月に実施された大統領選挙においては、現職のツルヴェンコフスキー大統領は立候補せず、与党VMRO-DPMNE擁立のイヴァノフ候補が当選し、大統領に就任した。
(16)2011年1月、政府によるメディアへの圧力を理由に野党の大半が議会をボイコット。与野党は野党の議会復帰に向けた交渉を続けていたが、双方の主張がかみ合わず、4月、議会は早期解散された。6月に行われた前倒し総選挙の結果、VMRO-DPMNEが第一党の座を維持し、アルバニア系政党DUIとの連立による政権が7月に発足した。野党第一党SDSMは議席数を約2倍に伸ばしたものの、政権奪還には至らなかった。新政権ではグルエフスキーが引き続き首相を務める。
外交・国防
1.外交基本方針
(1)1991年の独立後、国名問題を巡ってギリシャとの関係が悪化した(ギリシャは、マケドニアの憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名称を、「マケドニア」がギリシャ古来の由緒ある名であること、同名称の使用はギリシャ北部のマケドニア地方に対する領土要求の野心を示すものとして、その使用に反対している)が、1993年、「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(FYROM)」の暫定名称を用いることでギリシャの譲歩を引き出し、これによって国際的な承認を得るとともに国連加盟を実現した。また、OSCE及び欧州評議会への加盟を実現し、NATOとの間でPfP(平和のためのパートナーシップ)を締結した。なお、国名問題については、2004年11月の地方自治体再編法の是非を問う国民投票実施直前、米国が「マケドニア共和国」の呼称を用いることを決定し、ギリシャの強い反発を招いた。国名問題解決のため、現在ニーミッツ国連事務総長特別代表の仲介により交渉が行われている。
(2)1993年より国連PKO部隊(国連予防展開隊:UNPREDEP)が駐留してきたが、1999年1月、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国が台湾と外交関係を樹立したことに反発した中国(中国はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国との国交断絶を通告)が国連安保理での任期延長決議で拒否権を行使したため、同年2月末に同展開隊の任務は終了した。その後、2001年2月以降の国内北西部の治安情勢悪化を背景として、政府は6月、中国との国交を正常化したが、これを受けて台湾は同国との国交断絶を発表した。またマケドニア旧ユーゴスラビア共和国は、1993年よりOSCEモニタリング・ミッションを受け入れている。
(3)目下の主要な外交目標は、EU及びNATOへの加盟である。2004年3月、EUに正式加盟申請を行い、2005年12月、ブリュッセル欧州理事会において、コペンハーゲン政治基準及び安定化・連合プロセス要求基準に関する大きな進捗に歓迎が表明されるとともに、EU加盟候補国の地位を付与することが決定された。NATOへの加盟については、NATOがアフガニスタンで展開するISAFへの派兵、米国主導のイラクにおける多国籍軍への派兵など、軍事面における国際貢献を内外にアピールしつつ、NATO加盟招請に向けた各種取組みを行っているが、2008年4月ルーマニアのブカレストにおいて行われたNATOサミットでは、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国に対する加盟招請は見送られた。
(4)2009年12月19日より、EU諸国への査証免除が導入された。
2.軍事力
(1)予算:2009年 1億6,700万ドル
(2)兵制:志願制
(3)兵力:現役 約8,000名、予備役 約4,850名
経済
1.主要産業
農業(たばこ、ワイン、とうもろこし、米)、繊維、鉱業(鉄等)
2.一人当たりGDP
4,431ドル(2010年、IMF)
3.経済成長率
0.7%(2010年、IMF)
4.物価上昇率
1.5%(2010年、IMF)
5.失業率
32%(2010年、IMF)
6.貿易額・貿易品目(2009年、マケドニア国家統計局)
(1)輸出 2,691百万ドル(繊維製品、食品・飲料・たばこ、燃料、化学製品)
(2)輸入 5,043百万ドル(繊維製品、一般機械・輸送機器、食品・飲料・たばこ、燃料)
7.貿易相手国(2009年、マケドニア国家統計局)
輸出 ドイツ(16.7%)、セルビア(12.5%)、コソボ(11.6%)、ギリシャ(10.7%)、イタリア(8.0%)、ブルガリア(8.0%)
輸入 オランダ(10.2%)、ロシア(9.8%)、ギリシャ(8.7%)、イタリア(7.1%)、トルコ(4.9%)、ブルガリア(4.8%)
8.通貨
マケドニア・デナル
9.為替レート
1ユーロ=61.5デナル(固定)
10.経済概況
(1)旧ユーゴ時代よりユーゴ市場に対する依存度が極めて高かったため、1990年代に入って旧ユーゴの解体とそれに続く国連の対新ユーゴ経済制裁及び国名問題によるギリシャの経済封鎖のため、貿易、特に輸出が不振となり、経済は、独立以降急激な悪化と停滞を余儀なくされた。
(2)政府は、IMF及び世銀の支援を得つつ、1993年より経済安定化政策(賃金抑制、赤字国営企業の整理、為替レートの安定化等)を実施している。1995年より旧ユーゴ地域との交易が再開したこともあり、GDP成長率は、1996年以降はプラスに転じた。
(3)1998年から1999年のコソボ紛争時には多数の難民が流入し(最大時は約25万人)、その受け入れに伴う負担が重なった上、ユーゴや欧州との交易が阻害されたことにより経済的に大きな損害を受けた。また、2001年2月に発生した紛争により、経済は大きな打撃を受けた。
(4)現在政府は、外国投資の促進による経済発展を実現すべく各種取組みを行っている。2009年の経済成長率は、金融危機の影響により−0.7%と低調であったが、2010年実績はプラス成長(0.7%)に回復した。
11.主要援助国の二国間ODA(2008年)
米(32.08百万ドル)、ドイツ(24.77百万ドル)、日本(21.39百万ドル)、オランダ(20.17百万ドル)、スウェーデン(11.32百万ドル)
注※日本の援助実績については、下記「二国間関係」参照。
二国間関係
1.政治関係
日本は、1993年12月に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名称で国家承認し、1994年3月に外交関係を開設した。両国とも駐オーストリア大使がそれぞれの国を兼轄しており大使館実館を有しないが、東京とスコピエにそれぞれ名誉総領事を任命している。
2.経済協力
(1)日本の経済協力
- (イ)日本の経済協力は、同国の安定と発展がバルカン地域全体の安定にとって重要との認識の下、1994年に政策協議を実施し、技術協力を開始した。1995年には初の無償資金協力としてノンプロジェクト無償及び医療機材整備計画に対する援助を実施し、また1996年以降は草の根無償資金協力も多数実施している。更に1998年−1999年のコソボ危機により生じた難民の受け入れ国に対する支援として、医療機材供与、食糧増産援助、ノンプロジェクト無償等合計22億7400万円を供与した。日本は最大の支援国の一つである。
- (ロ)2000年度より同国は文化無償協力の対象国となり、最初の案件としてマケドニア・フィルハーモニー管弦楽団に対して楽器を供与することとなった。
- (ハ)同国政府の要請を受けて、ズレトヴィツァ水利用改善計画(マケドニア東部の4都市及び近郊への生活・産業用水供給、灌漑及び水力発電を目的とする総合開発計画)に対し、2003年11月に、96億8900万円を限度とする円借款を供与した。
- (ロ)2000年度より同国は文化無償協力の対象国となり、最初の案件としてマケドニア・フィルハーモニー管弦楽団に対して楽器を供与することとなった。
(2)日本の援助実績
- (イ)有償資金協力 96.89億円(「ズレトヴィツァ水利用改善計画」)
- (ロ)無償資金協力 112.46億円(2009年度までの累計)
- (ハ)技術協力 35.11億円(2009年度までの累計)
- (ロ)無償資金協力 112.46億円(2009年度までの累計)
(3)日本の主なマケドニア支援
内容 | 金額 |
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(1)一般無償 | |
(イ)スコピエ市呼吸器医療施設医療機材整備計画(2002年度) | 1億6百万円 |
(ロ)スコピエ周辺地域給水改善計画(詳細設計)(2003年度) | 5千3百万円 |
(ハ)スコピエ周辺地域給水改善計画(国債1/2)(2004年度) | 2億7千百万円 |
(ニ)スコピエ周辺地域給水改善計画(国債2/2)(2005年度) | 4億2千6百万円 |
(ホ)第二次一次医療施設機材整備計画(2006年度) | 8億1千万円 |
(2)ノンプロジェクト無償 | |
(3)食糧増産援助 | |
(4)草の根無償 | |
2001〜2008年度の累計 | 3億4百万円 |
無償累計 | 112億4千6百万円 |
内容 | 金額 |
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1997年度公的債務繰延(対象債権) | 5億3千5百万円 |
2003年度公的債務繰延(対象債権) | 1億9百万円 |
2003年度ズレトヴィッツァ水利用改善計画 | 96億8千9百万円 |
内容 | 金額 |
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(1)研修員受入れ | 2009年度までに343名を受入れ |
(2)専門家派遣 | 2009年度までに33名派遣 |
(3)開発調査 | 2009年度までに5件(大気汚染調査、水資源開発、全国地理情報データベース整備、土壌汚染管理、下水道改善計画調査) |
技術協力累計 | 34億9百万円 |
3.経済関係
二国間貿易額(2009年、財務省貿易統計)
- 輸出(日本からの輸出) 3.2億円(自動車、電気機器、一般機械等)
輸入(日本の輸入) 14.3億円(たばこ、ワイン等)
4.文化関係
(1)平成8年より国費研究留学生の受け入れ開始(大使館推薦は年間1名)
(2)1990年マケドニア・日本友好協会設立(会員約2,100名)
(3)文化行事として、2002年〜2009年、組み紐ワークショップを毎年開催。また邦楽コンサート、展示事業等を随時開催している。
5.在留邦人数
8名(2009年10月現在)
6.在日マケドニア旧ユーゴスラビア共和国人数
29名(2009年末現在)
7.要人往来
(1)日本より
年月 | 要人名 |
---|---|
1994年 | 柳井外務省総合政策局長をヘッドとする旧ユーゴ調査チーム |
1995年 | 衆議院外務委員会調査団(団長:三原委員長) |
1996年 | 水野清、柳沢伯夫衆議院議員 |
1999年4月 | 高村外相 |
1999年12月 | 河野外相 |
2004年9月 | 荒井外務大臣政務官 |
(2)マケドニアより
年月 | 要人名 |
---|---|
1995年 | ツルヴェンコフスキー外相 |
1996年 | ミトレヴァ議会外交委員長 |
1998年 | フィティ蔵相、イリエフスキー保健相 |
1999年 | ドンチェフ首相特使、ポポフスキ環境相 |
2000年 | ダニロフスキー保健相 |
2003年7月 | ミトレヴァ外相 |
2003年10月 | トライコフスキー大統領 |
2004年4月 | ブジャク運輸通信相、ジュンデフ外務次官(西バルカン平和定着・経済発展閣僚会合出席) |
2006年6月 | プレショスキー・マケドニア日本友好協力議員連盟会長 |
2006年7月 | キリヤス外務次官 |
2007年1月 | タシュコヴィッチ投資担当大臣 |
2011年4月 | ミロショスキー外相 |
8.二国間条約・取極
1997年2月、旧ユーゴ政府との間で締結された通商航海条約、科学技術協力協定、文化協定等の承継を確認するための書簡交換。
9.外交使節
マケドニア旧ユーゴスラビア共和国駐箚日本大使(ウィーン常駐) 岩谷滋雄特命全権大使
在京大使(ウィーン常駐) ギョルギ・フィリポフ大使