親鸞上人への道

2000年夏
親鸞上人への道(親鸞上人、蓮如上人の名跡を尋ねた?旅)

 今年(2000年)の夏休みに出かけた旅について書いて見ます。親鸞上人の旅と勝手に名づけました。少し、長くなりますがお付き合い下さい。

はじめに

 親鸞上人については、浄土真宗の開祖として有名ですが、などで読むと、昭和の初めまで、真宗以外の人々にとっては架空の人物ではないかとの反論がかなり多かったようです。それというのも、親鸞が活動していたときの公式の記録がほとんど残っていないからです。
 丹羽文雄の小説の親鸞などから推察すると、活動の拠点は越後を始めとして、関東に拠点を移し、関東、東北(現在では福島の下のあたりまで)を中心に、庶民である農民、商人、下級武士などに対して布教をしていたようで記録が残るかたちでの活動ではなかったのようです。昭和の始めに、親鸞の妻である恵信尼から娘覚信尼にあてた手紙が見つかり、そのなかで法然らに対する念仏宗への弾圧の中で、親鸞も越後に流されたことと記述されており、それが公文書の記録と符合するので、実在が確認された、といわれているようです。
 今回は、越後への流罪先とその後関東の拠点である茨城県の稲田草庵跡を逆行して訪ねるものです。
 今からは創造もつかないのですが、浄土真宗は、鎌倉時代においては大宗派ではなかったということです。
室町時代の末期に真宗興隆の祖と言われる蓮如上人という布教の天才が現れて、織田信長時代の対抗馬と目されるような巨大教団になったものです。そのため、親鸞の時代からも有力宗教だったとの感覚にとらわれるようですが、実際は違うというようです
 蓮如が京都での布教の地を、比叡山から追われて退却。北陸の吉崎(福井県と石川県の県境)というところに布教の拠点を移して、数年間滞在している間に、吉崎は、蓮如の話を聴くための人々が群集し、中世の宗教都市が突然現れたような状態になったようです。
 恥ずかしながら、親鸞上人の旅としていましたが、それ以外の部分が多くなってしまいました。当初は、上記の場所だけは必ず訪問する、逆行するので、一般道をとおって、新潟の直江津に行く。そして、福井と石川の県境にある吉崎を訪問する。後は、その場で考えようということでしたが、行く前日ぐらいから、能登半島は一周してみよう、高山市にも行ってみようということで、5泊(車中泊)6日で、金沢あたりではビジネスに泊まろうかどうかと考えていました。
 実際の行程は次のようになりました。結局、4泊5日に短縮。近場に来ると家が恋しくなりました。渋滞さえなければ、直線距離で200−300キロの範囲内ですので、4−5時間で帰れるところです。

1日目:8/11(金)
自宅出発―茨城県の稲田・西念寺(笠置市)―国道50号で、小山、足利、前橋、高崎―碓井峠(旧道)―軽井沢―長野・信州新町(道の駅)

 西念寺は、観光寺院と違い、普通のお寺です。国道50号線沿いにあるのですが、見過ごしやすいお寺です。親鸞が関東での拠点としたところで、筑波山の後ろにあります。草庵があったとのことですが、60歳ごろ念仏の迫害がつよくなり、親鸞は京都へ戻り、京都で80過ぎまで著述に励んでいたので、今も残っているわけはないのですが、稲田時代の弟子が代々西念寺を相続して現代に至っているとの説明の表示がありました。
 草庵跡には、立派な寺院が建立されています。その日も私がいた1時間あまり、説明板や寺院の中を見学しましたが、数人お盆なのでこられていただけでした。
 江戸時代には、関東の真宗関係のお寺の巡礼ルートの中心になっていたようですが、今は昔、何も感じられません。水戸黄門さまも訪問されて一句したためたようです。
 親鸞の関東下向を逆行するのですが、当日は、高速道路は大渋滞ですので、一般道の50号を通じて、碓井峠の難所を見てみようというものです。赤城山を右手に見ながら初めて国道50号を高崎まで走りました。北関東の産業道路を実感できますが、かなり混んでいました。 
 軽井沢へは、高速道路かバイバスを利用するのが普通でしょうが、親鸞一行が歩いたと考えられる碓井峠を実感するため、旧道が残っていたので、そこを通じていきました。意外ですが、直江津から長野への塩の道のルートは、思ったより平坦です。その後で、この碓井峠の難所があるわけです。それも1200年代ですので、どんな旅だったのかちょっと想像できません。
 今では新潟から東京へは三国峠越えが普通ですが、明治になるまでは、直江津−長野−碓井峠−関東のルートが旅人の行程のようです。三国峠超えは、普通の人が歩いて超えるには難所すぎるようです。
 いつも初日は、途中で運転疲れがでるので、軽井沢で一眠りして、更埴市の上山田温泉の公共温泉で入浴して、そこから1時間程度の距離にある信州新町(道の駅)で睡眠です。

2日目:8/12(土)
長野善光寺―直江津(親鸞上陸の地、流罪の草庵跡、恵信尼との草庵跡)―滑川、ほたるいかミュージアム―氷見、七尾、和倉―中島ロマン峠(道の駅)

善光寺は、戒壇めぐり。四国の善通寺(空海が産まれた寺)でも戒壇めぐりを経験したのですが、10年前ほど善光寺に初めて着たとき、この戒壇めぐりをして驚いたので、再確認のためお参りに行きました。これは、寺の本堂の地下を真っ暗な状態で歩いていくもので、どうということないのですが、漆黒の中を黙って歩いていると、何かを考えさせられます。
 善光寺から直江津(今は上越市といいます)までは、思っていたより広くて平坦です。上杉謙信と武田信玄が長野市内の川中島で何回も決戦をしたのを、新潟から長野の関係を理解していなかったので不思議に思っていたのですが、やっと理解できたようです。当時、越後の国府は直江津にあったのです。上杉謙信の春日山城跡が直江津にありました。
 今の新潟県を考えると、中心は、新潟市や長岡のあたりと判断してしまいますが、当時は越後は、直江津だけで、それ例外は僻地扱いになるようです。それと道が平坦です。武士団が移動するには、三国峠の方は、兵站部隊があるので、三国峠を超えて関東へ直接でていくのは困難であることが理解できます。武田信玄との決戦は、中間の長野あたりになるということのようです。
 直江津駅前の観光センターで、親鸞関係の三ヶ所を紹介されました。順番に回ったのですが、今は観光名所のひとつですが、親鸞が去った後どうなっていたかというと疑問です。20年近くいた関東の稲田草庵もまったくなくなっていたのに、新潟で影響が残っているかどうか。結局、蓮如以来の真宗の興隆のなかで、江戸以降、昔を偲んだものと思われます。
「親鸞上陸の地」は、昭和の始めに学者が、親鸞の流罪の跡を巡る旅にでて、そのときに、富山から陸地では無理なので、船で上陸したとして、その上陸地を特定したものです。記念公園になっています。「流罪の地」は、越後の国分寺の一角に草庵を作ったといわれており、現在もその草庵跡に建物があります。ここは、越後の国分寺跡がかなりの広さで残っています。流罪の罪がとかれ、そして、恵信尼と結婚したあとの「草庵の跡地」にお寺があります。「親鸞上人流罪の地」という標識が、直江津から出発したあと、金沢に向けて右側の電車の車窓から見えます。昨年金沢へ出張したとき、車窓から見つけました。普通のお寺で法事をしていたので、中に入ることもできませんでした。
 いずれの3箇所も訪問者はほとんどいません。まだ、お昼前です。
 コンビニでお弁当を調達し、富山との県境に近い、親知らずのサービスエリアで昼食。日本海に面した海水浴場である。足をつけただけで冷たい。子供達は泳いでいた。1時間あまり昼寝をする。
 海岸線にそって国道を富山方面へ向かう。滑川の「ホタルイカミュージアム」で見学。
 北上して、富山市内を左手に氷見を通過して、xxxのフィッシャーマンズワーフ?で激辛ラーメンで夕食。

3日目:8/13(日)
能登半島一周(穴水―九十九湾―珠洲市―禄剛崎(眺望抜群)―千枚田―輪島―能登金剛)―羽咋―金沢―松任市―しろやまさん(道の駅)

 25年前の職場旅行での輪島以来の能登半島です。当時は、道路が狭くて閉口しましたが、一周してみて、狭いところも多いのですが、かなり道路環境は良くなっています。富山湾に面した海岸線では、遠く立山連峰が海の上に見えて、変な感覚です。禄剛崎と能登金剛で時間をつぶしました。いずれも眺望は抜群です。この季節の能登半島は一番ではないでしょうか。冬の北陸は大変です。

4日目:8/14(月)
吉崎町(吉崎別院、蓮如記念館)―福井市―九頭龍峡―白鳥―荘川村―高山市(大渋滞)―平湯温泉(上高地入口)―風穴の里(道の駅)

 朝局地的に一時土砂降りでした。冬の北陸らしい天気。昨年の11月末出張したとき、急変したにわか雨にびしょぬれになってしまいました。冬の金沢では、天気が急変するので、常に傘を携帯するということです。 
 吉崎では、住職の説明を受けました。戦後まもなくまで、船宿がそばにあって、金沢と福井から船でお参りに来ていたとのことです。現在の寂れた状態とは雲泥の差です。それでも、1昨年5月の連休の「蓮如まつり?」のときの人の出は、相当のものでした。ただし、若い人はほとんどいませんでした。
 蓮如記念館もほとんど人がいませんでした。昨日の日曜日は一日中混雑していたとのことです。
 私自身は、吉崎の別院や蓮如記念館には、親鸞直筆ものや蓮如直筆ものが沢山ありますので、ひとつひとつ確認しているだけでも収穫でした。お寺の中で、直筆ものが無造作に展示されているのが新鮮です。アメリカの歴史の無さとの比較すると日本の古さが際立ちます。(が、中国は、もっと古いので、天津にいったときの案内書では、500年まえぐらいに開かれた町なので何もないとされていました。)
 自分自身は浄土真宗の信者ではないので、宗教的な部分はよくわかりません。なんとなく浄土真宗は凄いと感心しています。が、一般の仏教の明治維新の時と同じように、真宗も改革か革新が求められているのではないかと感じています。 
 高山に夕方ついたのですが、町中大渋滞で、人、人です。結局通りすぎて、松本へ向かって通過してしまいました。
収穫は、平湯で夕食をとろうとしたところ、屋上の浴場があったことです。600円あまりですが、一応露天風呂です。

5日目:8/15(火)
松本―塩尻―岡谷―諏訪―茅野―(蓼科)―佐久町―R299(一部国道閉鎖中)―上野村―鬼石町―児玉―川越―帰宅

 佐久から上野村町までの山越えになぜかこだわっていた。数年前に上野村手前までゴルフにいって、この先はどうなっているのか、いつか確認してやろうと思っていた。今回、一般道を戻ってくるのであれば、秩父あたりからの山越えの道をとおって帰ろうということで、本日は、山越えが中心。迷子になっても大丈夫なように出来るだけ早い時間に佐久から抜けようとしました。
 そうすると、松本見学や諏訪湖近辺で時間つぶすのは不安で、茅野から直行することにしました。が、諏訪湖で渋滞。政治力を使っていないと実感しました。
 国道299号は、途中まで快適な道路ですが、途中から、完全な兇悪道路になり、完全な1車線道路で、冬場はお手上げの道路といえるからです。対向車がたまたま無かったので無事に峠の頂上まで行けました。下りは上野村へ抜けるのですが通行止めになっていました。迂回路があったのでよかったのですが、詳しい地図がないので不安です。その途中で、航空機の墜落事故があった場所がそばであるのがわかりました。東京から3時間あまりで、こんな田舎があるのかと感心しました。が、児玉や本庄あたりは、通勤圏なのが不思議です。

総括

 日本全国を車で回ってみてわかるのですが、よくこんな山中や海岸に生活していると思えるところが沢山あります。そして、時代がかわって、そこからまた町へ戻る傾向が強く、廃村が増えているようです。
 私自身は、都会での狭い部屋での生活で不満を持っていませんが、短期間、季節のよいときだけは、そのようなところで生活するのもいいなと思います。
 実際にはそのような生活をしたことも有りません。キャンプ生活も、累計で2週間にも満たないからです。
 勤続20年の時、連続10日の休暇をとっていいということで、まとまった休みをとる時に、四国の宇和島まで車ででかけたことがきっかけで、その後、日本全国の海岸線を大体一周しましたが、一箇所でゆっくりしたほうがいいのか、このごろ考えています。